第6話          『独立門に朝鮮人の独立自治の気概を見た』


 昨夜外出からモーテルへ戻った時のこと、鍵を受け取るのに受付(そんな立派なものでなく

おばちゃんが万年床でゴロゴロする部屋なのだが)に人がいない。「ヨボセヨ〜(すみませ〜

ん)」を連発するも、返答がない。呼び続けること数分、客室からおばさんが出てきた。掃除を

していたのか、はたまた仮眠でもとっていたのか、彼女の行動は全く以て不明であるが何にせ

よ鍵の引き渡しを要求する。『なんだ、そんなことで呼んだのか』と言わんばかりの顔をしている。

「いいか、あんたの部屋の鍵はこの小窓を開けたここにいつもぶら下がっている。勝手に持って

いっていい」とのこと。おいおい・・・。セキュリティは万全のようだ。



 3月12日月曜、今日で事実上、視察最終日である。明日は午前の飛行機で帰国するため、視

察は一切できない。しかしながら今日月曜は前述のように博物館の類が休館であるため、訪れ

る場所も限られている。本日の視察メニューは南山韓国伝統家屋村、旧ロシア公使館を訪れる

ことだ。


 9時過ぎにモーテルを出た。南大門をふらつきながら駅へと向かう。南大門界隈はソウルでも屈

指の繁華街である。扱われているものは衣料が中心だ。値はあってないようなもので最初はかな

りふっかけてくるように思う。カバンや時計は奥からニセモノを持ってきて販売する。中国に比べ違

法コピーに対する意識、罪悪感がまだある方なのだろうか。あくまで私個人の見解であるが、南大

門は観光客を対象とした市場であり、東大門は韓国人相手の商売をしているというイメージが強い。

東大門の方が値段表示もきちんとされているケースが多く、安心して買い物ができるような気がする。

扱っているものは似たり寄ったりで、高級ブランドのようなものはないのだが・・・。



 さて朝食代わりに南大門内にある安食堂でビビンバを食した。地下鉄に乗り南山韓国伝統家屋村

へと向かう。文字通り”南山”とつく以上、山ではあるが大した山ではない。また山頂にはタワーが立

っており、ソウルの街を一望できる。夜景がキレイだと言われているが私自身は今まで登ったことが

ない。一人で夜景を見たところで・・・という感じがするからだ。南山韓国伝統家屋村についてご紹介

しよう。ここは李朝末期に実在した伝統的な韓国家屋5軒を移転修復し公開しているところだ。と言い

ながら、昔の人はみんなこんな家に住んでいたのかと思ってはいけない。王家縁の人物や両班(これ

は朝鮮独特の貴族階級みたいなものなのだが、定義が非常に難しい。先祖に科挙合格者や有名な

儒学者がいる由緒ある家系)の家が公開されているのであって、決して庶民の暮らしぶりが窺えるも

のではない。私と親交の深い方は少し疑問に感じられるのではないだろうか。『こいつはこういうとこ

ろに興味がないはずなんだが・・・』と。確かに。実はこの5軒公開されている家の中に朴泳孝の家が

あるのだ。朴泳孝とは清の干渉から抜け出し、朝鮮は自ら近代化を進め、独立自治の国として世界

に門戸を開けるべきだと主張した”開化派”と呼ばれる人士である。1884年金玉均、徐載弼(この人

物は後でも出てきます)らと共に甲申政変というクーデターを起こしたが失敗し、日本へ亡命した経験

を持つ。奥さんが第25代の王哲宗の娘であり、さらに韓国の国旗大極旗を作った人でもある。私個人

としてはなかなか好きな人物であるため、朴泳孝がどんな家に住んでいたのか見てみたかったのであ

るが、実際に建物を見ても別に豪華なものでも、豪邸でもなく、更には実際に朴泳孝が「ただいま〜」と

か「ごはんまだ〜?」とか言っていた家ではなく、あくまで復元したものと考えると大きな感動はなかった。

『ほぅ、そうですか』といった程度の感想だった。



     
    韓国伝統家屋村入り口。大したところでは・・・。         家屋村から南山山頂のタワーが見える。

 


 一通り南山韓国伝統家屋村を視察し旧ロシア公使館へ向かうことにした。訪韓前に家内から子供に

小さな菓子でいいから何か買ってきてやってくれと言われていた。自分のものは要求せず、子供の分だ

けでもというあたり、なかなか感心した奴だと思い出した。しかしよく考えてみれば私の懐具合を一番よ

く知っているのも家内であって、何か自分が欲しいものがあったとしても到底依頼できる懐具合ではない

ことを知っていたのかもしれない。道すがら、日本でいう100円ショップがあったので入ってみた。中には

ちょうどいい塩梅の菓子が数種類ある。だが困った。袋には日本語が書かれたもの、ロシア語が書かれ

たもの、中国語が書かれたものなどはあるのだが、肝心のハングルの書かれた袋に入った菓子がない。

韓国土産でハングルが書かれていないなんて・・・どうも納得できない。『これ読めないけど、韓国のお菓

子なんだね』と思っていただけない韓国土産ではどうも納得できないのである。定番の土産、海苔にして

もパッケージに『岩のり』なんて日本語が書かれているとそれだけで興ざめしてしまう。これって私だけが

抱く感情であろうか・・・。



 さて市庁からも程近い旧ロシア公使館へ着いた。李朝末期の建物だ。この建物は近代朝鮮史を学ぶ

者にとって実に感慨深い場所だ。1894年日清戦争に勝利した日本は、さぁこれで朝鮮を意のままにで

きると思っていたが、朝鮮王室は清に代わりロシアへと接近した。「引俄拒倭(ロシアに接近し倭を拒む)」

に危機感を抱いた日本公使の三浦梧楼は1895年10月、こともあろうに高宗の妃、閔氏を殺害してしまっ

た。今の世で言えば、外国の駐日大使が美智子様を殺害するようなものであり、とんでもない事件である。

 その上三浦たち犯人は証拠不十分で無罪となっている。因みに三浦は学習院の学長も務めた経歴があ

る。妃が殺害されれば、次はオレかと王が不安になるのも無理はない。1896年2月第26代王の高宗はロシ

ア公使館に逃げ込み、公使館内にて執政するという前代未聞の事態となったのである。私が訪れたのは

その公使館跡である。残念ながら中には入れず外から眺めるだけだ。宮女用の籠に隠れ、ロシア公使館へ

入っていく高宗は一体どのような朝鮮を理想と思い描いていたのだろうか。今ではその横に真新しいロシア

大使館が建っていた。



     
 旧ロシア公使館。なかなかうまく撮れてるじゃないか。     独立館。ここで熱い討論が行われたんだろう。



 時刻は14時。視察終了には少し早い。西大門に行くことにした。西大門も前述の南大門、東大門と位置

付けは同じであって城門の一つであったのだが、今日ではもう残っていない。以前の視察で西大門刑務所

(日本統治時代、反日的な人物を中心に収容したところ)をご紹介したことがあったが、今回の目当ては西

大門刑務所ではない。隣接する独立館と独立門を見たかったのである。前回も見てはいるのだが、知識が

浅かったために独立館と独立門をよく理解できなかったのである。


 以下、独立館前にある看板を日本語訳してみよう。


 独立館は朝鮮時代中国使節達の迎接と見送りの宴を催す建物の一つ慕華館であったが、

1894年(甲午改革)以後は徐載弼の発案によって独立協会が主導となり改修、独立館と改

称し、ここで愛国討論会を開催し、自主・民権・自強思想を鼓舞する場所として使用した。

独立門とともに独立思想を表現したものであったが、日帝によって潰えた。

(引用者注:『費えた』は直訳すると『撤去された』と書かれていた)。


 少しマニアックなお話になって恐縮だが、独立協会が解散に追い込まれたのは日本によるものではな

い。趙秉式、閔種黙らによる政権奪取に伴う守旧派の弾圧により解散へ追い込まれたのであり、日本が

朝鮮の開化を妨げたものでは決してない。私はこの解説文をいささか問題ありと思うのだが、同時に単

なるミスではない感じがした。と言うのは、隣接する西大門刑務所跡は反日的展示が多数あり、とても日

本人が韓国人に交じって見学できる雰囲気の場所ではない展示内容だ。見学を終えた人達はこの独立

館の前を通る。従って刑務所の展示と一体となって反日感情を煽ることを計算しているのではないか。

少々穿った見方かもしれないが、独立協会の解散が日本によるものなどと書くのは単なる誤記ではなく

作為的なものを感じた。実際のところはどうなのだろうか・・・。


 次に独立門である。説明文には以下のように書かれていた。


 独立門は独立協会が自主独立の決意を固め、中国からの使者を迎えるために使われて

いた迎恩門を取り壊し、1898年、その跡地に建てたものである。


 前回訪れた際もこの説明文を読んだのであろうが、今回はかなり”なるほど”という感じがした。日本と

清が戦った日清戦争が1894年、その後朝鮮では徐載弼を中心として独立自主のための機運が急速に

高まっていった。つまり独立門の建立は朝鮮人自らが ”清の属国”という立場を克服しようとしたもので

あり、日清戦争に勝利した日本による宗主権の否定とは違って、朝鮮族自らによって内からの近代化と

改革を宣言したものと考えるべきではないかと感じた。



     
   独立門。独立自治の気概を感じるなぁ。         徐載弼の像。この人は米国で医学博士号をとったはず。


 


 さて時刻も16時になろうとしている。今回の視察もこれにて終了かなと地下鉄の駅に向かって歩き出

した。独立門から100mほどの位置に小学校があった。その小学校の壁に『清水館跡』と書かれたレリー

フを発見した。おぉ!これはすごい!1882年、朝鮮の兵士が給料13箇月未払い(よく13箇月も我慢した

なと感心する。私なら給料日に入金されていなければ、総務に怒鳴り込むことだろう)に端を発し、反日、

反閔妃政権を掲げ蜂起した壬午軍乱という騒ぎがあった(隠退していた高宗の父、大院君が一時的に

返り咲く契機にもなった)のだが、その際、暴徒と化した兵士に襲われそうになった日本の花房公使は

ここにあった公使館に火をつけ、重要書類と共に焼失させた後、命からがら日本に逃げ帰ったのである。

当にここがその公使館跡地であったのだ。偶然ではあるが、オマケの視察になったような気がしてうれし

かった。



 
    小学校の壁に見つけた清水館のレリーフ          牡蠣入りパジョン。うまかったよ。実に。



 再び地下鉄駅を目指して歩く。道すがらワッフルを発見した。できたて(焼きたて)のワッフルにハチミツ

と生クリームをはさみ、質素な紙に包んで渡される。w500。70円くらいだ。なんて安いんだ。そしてなんて

旨いんだ。視察に疲れていたのであろうか、妙に甘いものがうまく感じた。いつもカロリーを気に掛けてく

れている家内がこんなものを食べている姿を見たら卒倒するかもしれんなと思った。それにしても旨かっ

た。これだけを韓国に食べにくるだけでも価値があるかも・・・ないかな。だがいつの日にか娘たちと食べ

たいものだと心底思った。



 地下鉄に乗りミョンドンへ。実はいつも店の前を通るたびに食べたいものがあった。クルパジョンである。

クルは牡蠣を意味し、パジョンはネギ焼き。牡蠣とネギがふんだんに入ったお好み焼きとお考えいただけ

れば良いだろう。視察無事終了を祝し、食べることにした。少々お高くw12000。たがやはり旨かった。

最後は少し飽きてきたが(ワッフルを食したために満腹になったという理由もある)完食した。


 一度モーテルに戻り、帰りの荷造りをする。どれだけカバンにスペースがあるかを確認したかったためだ。

大変申し訳ないのだが、今回はほとんどお土産を購入していない。よってこれを読んでいただいている皆さ

んのお手元に届かなくてもどうかご容赦いただきたい。再度モーテルを出て辛口かっぱえびせん、ロッテとん

がりコーン(ハウスでなくロッテが出している。なぜだろう?)などを購入。仮にカバンの中で粉々になっても家

族用だけに気にしなくて済む。



 私は年に1〜2度韓国へ視察に訪れているのだが、一日の視察が終わり、喫茶店で記録を整理する瞬間が

もっとも好きな時間なのである。贅沢にちょっと高めのコーヒーを飲みながらノートを整理する。至福の時だ。

しかしそれも今日で終わりかと思うと寂しい。けっこうまじめにこのまま蒸発しちゃおうかなとも考えてしまった。

夜11時、モーテルに戻り就寝とした。 鍵?無論自分で小窓から手を突っ込んで取った。










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